性同一性障害と向き合い、誰よりも声の大切さ、声の真実を知る、甘利さん。
前回の大論文に続き、今回も目の覚めるような名文です。
甘利さんの声に対する誠実な知識と豊かな感性に対し、わたしはボイスアドバイザーの称号を差し上げようと思います。
おめでとうございます。
この先も、声に悩むGIDの方々の鑑となってください。
甘利さんのお幸せを心よりお祈り申し上げます。
続・生きるための声 ~GID MtFの自然な女性声の境界線~
甘利実乃(あまり・みの、旧姓:齊藤)
わたしは會田茂樹先生のボイスケアサロンに通い始めてから2年半が経過します。長かったようなあっという間のような感覚ですが、その間にわたしの生活は激変しました。そんなわたしから、同じように會田先生の元で自然な女性声を目指して頑張っているかたがた、これから頑張ってみようというかたがた、そして、通えないかたがたへもなにか参考になればと思い、2年ほど前に書かせていただいた「生きるための声 ~GID MtFの自然な女性声を目指して~」の続編を書いてみたいと思います。
◆「ビリでもいいからついてきなさい」
わたしは生まれつき心臓が弱かったため免疫力が弱く、無理をするとすぐに大病してしまいます。わたしが中学生だったとき、入学して2ヶ月ほど頑張ったあげく、入院しなければならないほどの大病を患ってしまい、もう復帰することは無理なのでは、と思われてしまったときがありました。
3ヶ月後、わたしはまだ完全には体が治ってはいませんでしたが、学期の始まりとともに学校へ戻り、校長室を訪ねました。
そのときに校長先生からいただいたのが、「ビリでもいいからついてきなさい」、という言葉でした。
この言葉はその後も幾度となく生命の危機に見舞われたりするたび、わたしの心を励まし続けました。ビリでもいいんだ――そう考えることでふっと気が楽になり、物事がうまくいったことが何度あるかしれません。
わたしは、GID MtFのかたがたにも言いたいのです。ビリでもいいからついてきなさい、と。そして、ビリになるのはそれほど難しいことではなく、ビリでもいいから生きていかれることがどれほどの無限の可能性をもたらしてくれるか、知ってもらいたいと思います。
◆GID MtFの自然な女性声の「ビリ」とは
わたしの言う「ビリ」というのは、この場合は、なんとか女性として生きていける最低ラインのことを言います。つまり、GID MtFの自然な女性声の境界線のことです。
この境界線をはっきりと認識していないと、実は「声パス」はできないか、あるいは、できていても自分では全然だめだと思い込み、いつまでも気持ちが沈んだままで、声にこだわり続け、苦しみもがくということになってしまいます。
では、GID MtFの声が自然な女性声として認識されるのに最も必要な要素はなんでしょうか。
それは、「高音質」です。高い音ではなくて、良い声、響きやつやのある質の高い声、つまり、心地良い声です。それさえ達成できてしまえば、声の高さ低さはおまけ程度のもので、「ビリ」として生きていくのに苦労することはありません。
「ビリ」「ビリ」としつこく書いていますが、「ビリ」でもいいからなにかの分野の中でやっていけるということは大変に凄いことなのです。「ビリ」にさえなってしまえばこっちのものです。あとは、声のことなど忘れて、やりたいことをどんどんやっていけるのです。もちろん、もっと良い声を出したい!という野心は持っていて構いません。ただ、執着しないことです。
なお、本当のことを言えば、性に順位はありませんから、「ビリ」などという順位を思わせる言葉は適切ではないとは思いますが、校長先生の言葉とからめて説明したかったため、ここではあえて「ビリ」と表現させていただいています。
◆心地良い声は性別を越える
なぜ、「高音質」な声は自然な女性声にとって最重要なのでしょうか。それは、心地良い声は性別を越える力があるからです。つまり、相手が低い声を出していようが、その声の質が高ければ、人間とは不思議なもので、心地良い声は無差別に受け入れてしまうという性質があるようなのです。
わたしがそれに気がついたのは、ボイスケアサロンに通い出してから8ヶ月たったときでした。半年たった頃から、声が良くなったとは言われていたのですが、自分ではあまり自覚はありませんでした。
自信がないからというのと、声だけで女性として通用しているのかを確かめるという実験的な意味合いも込めて、その頃、わたしはちょうど中性に見えるようにしていました。それがあるとき、普通に女性として扱われていることに気がついたのでした。
そして、そのときこそが、わたしが「高音質」の声をようやっと少し出せるようになったときだったのでした。
正直、わたし自身、驚きました。まだまだ高音が出せるような状態ではなく、単に響きとつやのある声が多少出せるようになっただけで、ほんの少し地の声よりも高めの声を出していたに過ぎなかったからです。
◆境界線は「中性」にあり
実はそのとき、なにが起きていたのか、今なら分かります。見た目は中性的、声も中性的。だから、わたし自身が自認して生きている性別のままに自然に振る舞っていれば、相手もそう思い込んでしまっていたのです。
ひとは不思議なもので、だれかひとを見たときに、必ず男性か女性かの判断をしたがります。そのとき、相手が中性的だと、頭の中で一種の混乱状態が生じます。脳が相手を男女のどちらに区別したらいいのか、分からないというのは、どうやらひとにとっては苦しい状態のようです。
見た目の中性度の実現方法はひとそれぞれでしょうが、声の中性度は、「高音質」な声を出せるようになると達成することができます。もっと言えば、声が性別を超えた次元に入っていきます。声の高い低いは確かに男女の判定の大きな要素にはなっているのですが、例外があるのです。心地良い声がその例外にあたるのです。
ですから、見た目が中性的、声が「高音質」であれば、まったくの中性に相手は感じます。それでも男女のどちらかに区分したいという本能がありますから、なにかしらのサインを探そうとします。あなたが自分を女性だと思っていれば、当然、それが相手になんらかの形で伝わります。そうすると、相手はあなたのことを女性だと補正して判定し、脳がほっと落ち着くという次第です。なお、それでも分からない場合は、「あなた、どっちなの!?」などと、真剣な顔で尋ねられることもあります。こどもが悩みに悩んだあげく、無垢なまなざしで「男ですか? 女ですか?」と聞いてきたこともあります。わたしは、にこっと笑って「おばさんだよ!」と答えましたら、「おばさん」という新しい種を発見して目からうろこが落ちたかのような顔をしていました。
こんな話、本当!?と思われてしまうことは重々承知です。そこで、実証が必要となります。
続・生きるための声 ~GID MtFの自然な女性声の境界線~②へ続く・・・
前作の素晴らしい論文もお読みください!
生きるための声(GID MtF 自然な女性声を目指して)①
生きるための声(GID MtF 自然な女性声を目指して)②